聖アウグスティヌス
~ 問いを抱えて生きる ~
主任司祭 野田 安則
8月28日(年間第21金曜日)、教会は聖アウグスティヌスを記念しました。
『告白』の冒頭で、彼は「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎません」と祈っています。アウグスティヌスは、長い間、真理を求め、迷い、問いながら生きた人でした。すべての答えを得てから神を信じたのではありません。むしろ、分からないことを抱えながら、それでも神を求め続けました。
当日の福音は、賢いおとめと愚かなおとめのたとえでした(マタイ25:1-13)。これは聖アウグスティヌスのために選ばれた箇所ではなく、年間第21週金曜日の朗読です。それなのに、アウグスティヌスの生涯と不思議なほど響き合っていることに驚きました。
賢いおとめとは、すべてを分かっていた人ではありません。花婿がいつ来るか分からないまま、それでも油を絶やさず待ち続けた人です。その油とは、答えが見えなくても、主は来られると信じて待ち続ける信頼、と言えるかもしれません。
この姿は、聖書に登場するほかの人々にも重なります。アブラハムは「行き先を知らないで」出発しました(ヘブライ11:8)。聖母マリアも、理解できない出来事をすぐに答えにしてしまうのではなく、「心に納めて、思いめぐらして」いました(ルカ2:19、51)。
信仰とは、すべてが分かってから歩き始めることではありません。分からないことを抱えながら、それでも神とともに生き続けることです。問いを抱えたまま、今日を生きることです。意味が分からない、その日常にも、神はともにいてくださいます。