主の平和!

「祈ったけれど、神は少しも私の祈りを聞き入れて下さらない」という不満をよく耳にしますが、
これは「祈り」というものを正しく理解していないことから生じるのです。

これは祈りというよりも、願いであって、 自己中心的なものです。
ここでは、神を自分の願いを満たしてくれる存在にしています。

言ってみれば、神を自分の言うことを何でもしてくれる 
下僕のように思っているとさえ言えるでしょう。

確かに、神は「父なる神」なのですから、
この神に対して何を願ってもよいでしょう。

しかし、神は私たちが願っていることを全て聞き入れて下さるとは限りません。
それが私たちにとって為にならないことであれば、
いくら願っても聞き入れてはもらえません。

本当の「祈り」というものは、祈りの対象である神を変えるのではなく、
祈っている私たちを変えるものなのです。

これこそが「祈り」と呼ばれるものです。「神の御旨」に心を開き、
それに全幅の信頼をもって依り頼むという姿勢が「祈り」というものでしょう。

つまり「御旨のままに」という態度です。
神の導きを信頼して、神のなさることに深い意味を尋ねて行くというのが、
信仰者の取るべき姿勢でしょう。

神の導きに身を任せるといっても、
その神がどんな神であるのかをほとんど知らないのであれば、
身を任せることは不可能でしょう。

身を任せることができるためには、
身を任せる相手である神が信頼するに足りるお方であると
確信されていることが前提となります。

祈りというのは、信仰そのものの発露であり、
これは神に対する絶対的な信頼の上に成り立つものです。

これを欠いた祈りとは、実は祈りではなく、
身勝手な願いでしかありません。

私たちが望むことは必ずしも実現するとは言えませんが、
神の望まれることは必ず実現します。

私たちの祈りが、神の御旨と一致したものであるならば、
それは必ず実現します。

それでは、目に見えない神を知るには、どうしたらよいでしょうか。
福音書に記されているイエス・キリストをよく知ること、これが全てです。

イエス・キリストは父なる神の「生き写し」であるからです。
キリスト御自身も「私を見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14・9)と言われています。

また、「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」
(ヨハネ14・6)とも言われています。

私たちキリスト者は、キリストによって啓示された神を信じているのであって、
キリストの関与しない神を信じているのではありません。

もし、キリストを抜きにした神を信じているのであれば、
それはキリスト信者ではありません。